大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和60年(行ツ)171号 判決 1986年7月14日

上告人

学校法人岩手女子奨学会

右代表者理事長

三田俊定

右訴訟代理人弁護士

田村彰平

被上告人

岩手県地方労働委員会

右代表者会長

畑山尚三

右指定代理人

大山宏

佐藤弘

石塚則昭

右参加人

岩手女子高等学校教職員組合

右代表者委員長

渡辺礼一

右訴訟代理人弁護士

澤藤統一郎

右当事者間の仙台高等裁判所昭和五八年(行コ)第七号、第八号不当労働行為救済命令取消請求控訴、同附帯控訴事件について、同裁判所が昭和六〇年六月二八日言い渡した判決に対し、上告人から一部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人田村彰平の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。右違法があることを前提とする所論違憲の主張は、その前提を欠く。論旨は、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 香川保一 裁判官 牧圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 藤島昭)

上告代理人田村彰平の上告理由

第一点 上告理由

原判決は憲法第二一条及び労働組合法第七条の解釈を誤り、かつ審理不尽の違法がある。

一、上告人の性格

上告人は岩手県においては数少い伝統のある私学であり、その前身は大正一〇年三月一五日三田俊次郎によって創立された盛岡実科高等女学校である。当時は盛岡市内丸五七(岩手公園下)の元作人館中学校校舎を使用し、同年四月五日に開校した。

昭和二年四月七日岩手高等女学校と改称、同年四月二〇日財団法人岩手女子奨学会を設立、昭和一五年六月一四日現校舎に移転、同一八年五月二〇日現理事長三田俊定が理事長に就任した。

昭和二三年三月学制改革により岩手女子高等学校及び岩手女子中学校(昭和四三年三月三一日廃止)を設置し、岩手高等女学校を廃止した。昭和二六年三月一〇日私立学校法により学校法人岩手女子奨学会を設立して今日に至っている。

現在

生徒数

普通科 九三六名

衛生看護科 一二六名

同専攻科 八九名

計 一、一五一名

卒業生(創立以来) 一万四七一五名

教職員

校長 一名

副校長 一名

教頭 一名

教諭 四一名

常勤講師 五名

非常勤講師

普通科 一一名

衛生看護科 二九名

養護教諭 一名

事務員 五名

寮母炊事婦 二名

用務員 三名

職員数合計 一〇〇名

二、職員採用の方針

上告人の経営する岩手女子高等学校は私学の立場において、教員の募集については私立学校の特性と、前述の学校設立の趣旨をよく理解し、信義と友愛の心をもって教育に専念できる人物を求めている。

その採用にあたっては公立学校のように公募をすることはせずに前記趣旨により適任と認められる者について関係者から推せんがあった場合に理事長が面接して決定することになっている。

本件において問題となった佐々木徳司を国語科教員として昭和五四年四月一日に採用するにあたっては、理事長三田俊定は当初中央(つまり東京近辺)の大学卒業生を採用する方針であり、地元岩手大学の卒業生である佐々木徳司を採用することには消極的であった。しかし学校長小松代融一は地元にも教員養成を目的とする大学があり、できれば地元出身者を採用したいという考えを持っており、結局は校長の希望どおり佐々木徳司を含めて地元出身者計三名を採用したものである。

三、小松代校長と佐々木徳司の関係

岩手女子高等学校の校長小松代融一は昭和五年東洋大学専門部卒業後、岩手高等女学校、県立中学校、同高等学校の各教諭、岩手医科大学教授を経て、昭和五三年四月一日請われて校長に就任した。同人は昭和三六年九月に文学博士の学位を取得したが、その博士論文は東北特に岩手県の方言の研究であり、方言の研究は同人のライフワークである。

佐々木徳司が教員として採用されるに至ったのは、岩手大学教授の本堂寛の推せんによるものであり、本堂教授は小松代校長が昭和二〇年四月ころ盛岡中学校の教諭をしていたころ同校に入学して、小松代校長の生徒となったものである。その後間もなく小松代は水沢中学校に転任したが、両者の交際は絶えることなく続いており、本堂が東北大学に進学した後、方言研究について小松代の指導を受けるなどして、両者の師弟関係は親子のように続いていた。

佐々木徳司は昭和五四年三月岩手大学教育学部中学校教員養成課程国語科を卒業した者であるが、佐々木にとっては本堂は右大学に在籍当時の担任教授であり、卒業論文の指導教授でもあった。佐々木は在学中本堂教授から方言研究の手ほどきを受けており、岩手女子高等学校に赴任するにあたって、方言研究については岩手県内の第一人者である小松代校長から指導を受けて、在学中やり残した方言研究を大成させるようにと云われていたものである。

四、小松代発言の内容

岩手県地方労働委員会が上告人の支配介入があったと認定した根拠は、昭和五四年四月二六日朝佐々木が校長室においてある出勤簿に判を押しに行ったところ、小松代校長は、佐々木に対して、組合から組合に加入するよう「勧誘されたならば、一年間勉強して自信がついたならば考えますということで断っておいたらいいんじゃないか。」と言ったとするにある(甲第一号証命令書7頁より引用)。

この発言についてこれを組合に対する支配介入の不当労働行為と認定した岩手県地方労働委員会及び一、二審の判断は前記発言の趣旨を正当に評価していないものである。

(一) 両者の人間関係

既に述べたとおり、両者は方言研究という学問の世界において本堂教授を通して結ばれた先輩と後輩の関係にあり、高令の小松代校長としては年令からしても孫弟子という言葉にふさわしい佐々木に対して、先輩として後輩を指導育成しなければならないという義務感と、一方では学問上の後継者としての期待感を抱いていた。同校長は昭和五四年二月一三日ころ本堂教授と同行して学校に来訪してきた佐々木と初めて会って以来、機会ある毎に佐々木と語り会ったことは、職務に専念すると共に国語学、方言学の後継者、共同研究者として努力して貰いたいということであった。

もっとも佐々木自身がこのような小松代校長の誠意と愛情あふれる言葉をどのように理解していたのか、後日の同人の行動特にブラジルから発信された恩師本堂教授の書面を地労委の証拠として提出するなどの行為に照して考えると疑問がないではない。しかし小松代校長としては師弟関係の非公式な場面における発言であり、これを対組合の問題として公開の場においてとりあげられるものとは夢にも考えていないことであった。小松代校長としては対組合の次元で評価されるべき話しとは毛頭意識していなかったものである。

(二) 小松代発言の主目的

小松代校長と佐々木徳司の初対面であった昭和五四年二月一三日以後、同校長が佐々木徳司に話しかけてきたことは

早く一人前の教師になること

方言学の共同研究者ないし後継者として努力してもらいたいことの二点に尽きるものであった。

昭和五四年四月二六日の出勤簿に押印するときの話しは要約すると

一年程度は勉強に専念すること

組合加入についてはその後よく考えて決定すること

ということであって、小松代発言の主たる目的においては従前の佐々木徳司との間において話しあったことと何ら異なるところはないのである。然るに地労委においては組合加入についての片言隻句をとらえ、これを不当労働行為と評価したことは相当ではない。そうではなく発言の主目的に重点をおいて理解すべきであり、そうすれば不当労働行為と評価すべき内容ではないことは一見して明らかである。この点については原審においても審理を尽していない。

(三) 小松代発言の態様

地労委の認定した小松代校長の発言は唯一回限りの、しかも校長室に出勤簿に押印するための機会に雑談的に言葉を交しただけのことに過ぎない。それは公式の場で、或いはことさら呼びつけるなどして命令的に話したことではないし、又双方の態度もなごやかに話しをしていたものであっていさゝかも強制的又は強要にわたるような内容のものではなかった。執ように組合不参加を求めたものでもないし、上告人の学校経営上の方針として、そのようなことを小松代校長にさせたわけではない。

要するに師弟の立場(少く共小松代校長はそう認識していた)においての自由な発言に過ぎないものである。私立学校においては卒業生を教師として採用することは珍しくないことであり、そうした立場は校長対教師の立場と師弟の立場と両立するわけである。本件の場合も師弟の対話と理解すべきであり、不当労働行為の次元において判断すべき問題ではない。

(四) 小松代発言の正当性

小松代校長の発言は言論の自由の範囲内のものであり、個人対個人の話し合いとして正当なものである。管理職の立場にある者であっても憲法に保障する言論の自由を有することはいうまでもない。一般的には言論の自由は公共の福祉に反しない限りなるべく広く認めることが民主々義社会としては望ましいことであるし、使用者の言論の自由も同様である。使用者側の立場にある者の反組合的な発言がすべて不当労働行為であり、支配介入となると解することは、労働者側の反経営者的発言が殆ど放任行為となっていることと対比して公平を失する。本件のように特殊な人間関係にある者の非公開の場において、しかも何らの強要も伴わない一回だけの話を不当労働行為と解する理由はない。

この発言において主たる目的は教師としては未経験の佐々木徳司に対して勉強して早く一人前の教師となるように求めたものであるが、組合加入については一年位経ってから自主的に判断した方がよいと述べている。この程度のことでは組合の団結権、団体行動権を侵害するものとは解されない。しかも同校長がこのような個人的意見を述べたことについては正当な理由がある。即ち小松代校長は既に述べたとおり昭和五三年四月一日校長に就任したのであるが、その以前から相当期間にわたって労働組合の違法な労組活動が激しく続けられており、温厚な経営者側に対し非礼かつ困惑させるような事実が屡々あった。小松代校長就任後もなお止まず、その後一、二年間は頂点に達した観があった。このような教育の場における教育的秩序を破かいする行為について、かねがね小松代校長はその対策について頭を痛めていたものである。

本件においても昭和五四年五月三一日朝組合において校門附近において登校する生徒に対して父兄宛文書を配布したことに対し、昭和五四年六月一日付で校長小松代融一名で警告書を発したことが地労委では不当労働行為と認定された(一審において取消、上告対象外)。この種の行為は枚挙に暇がなく、かつ学校側の警告を無視して続けられてきている。こうした労組の違法な活動に苦慮していた小松代校長としては、個人的立場においてこのような言葉を洩したことは無理もないことであった。

(五) 小松代発言の影響

小松代校長が佐々木徳司に述べたところによって労働組合の団結権又は団体行動をする権利を侵害した事実はないし、その虞れもなかった。

佐々木徳司は地労委の証言において、兎に角教師になりたかったと述べている。そして学校側としては関知しないところであるが、本堂教授から組合に加入しないことが条件だと云われたと証言している。若しこれが真実とするとおそらく本堂教授はかねて恩師の小松代校長が過激な労組をかゝえて本来学究の身でありながら労組対策に苦労していることを知っていて、佐々木に組合に入らないようにと個人的に注意したものと考えられる。そしてこのことは地労委でも原審でも学校側の不当労働行為とは認めていない。

それでは佐々木自身はこの本堂教授の注告をどのように受けとめていたのか、この点については明確ではない。初めから組合に加入するつもりでいて教師になりたいために恩師を欺いたのか、それとも組合の歓迎会の酒席に酔った余りに口を滑らせたことのなりゆきから組合に加入したのか不明である。しかし兎も角佐々木は教師として採用されて間もなく、組合に加入したものであり、小松代発言によって何ら組合加入が妨げられた事実は認められない。そして佐々木はこのことに驚いた恩師本堂寛が赴任先のサンパウロから佐々木に宛て出した手紙を地労委の証拠として提出しており、小松代発言が佐々木の組合加入に何ら影響を及ぼさなかったことは明らかである。

五、結論

以上述べたとおり佐々木徳司に対する小松代校長の発言はその人間関係、対話の場所、回数、強要性のないこと、背景としての当時の労使関係などの事情を総合考慮すると憲法第二一条に保障される言論の自由の範囲内のものである。これを不当労働行為と判断した原判決は憲法第二一条及び労働組合法第七条の解釈を誤り、かつ審理不尽の違法があるので、原判決破棄のうえ更に相当の裁判を求める次第である。

以上

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